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半世紀経ったものの

 公民権運動のさまざまな暴力に彩られた場面と怒れる若者だったパンサー党創設者のボビー・シールとヒューイ・ニュートンのパンサー党結成前の姿を映し出した後に、信号の壊れた交差点で子どもが車にはねられるシーンで始まるマリオ・ヴァン・ピーブルズ監督による1995年の『パンサー』は、壊れた信号機に象徴される荒廃した黒人コミュニティを守るためではなく黒人を取り締まるために黒人コミュニティをうろつく警官の蛮行から自らのコミュニティを守るためにオークランドで立ち上げられたパンサー党が、ごくごく当たり前の権利を主張し、当然守るべきものを守るために立ち上がって黒人コミュニティの支持を獲得していくのに足並みをそろえて当局から激しく弾圧される様を描いた映画である。それは、パンサー党がなにを主張していたかということよりも、最後に当局によってコミュニティにドラッグが蔓延させられていくさまも含めて、いかに崩壊していったかということのほうが強く印象に残る映画だ。

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 マリオ・ヴァン・ピーブルズは、この映画で描かれるニュートンやシールと同じくらいに怒っていたに違いない。信号機をつけろ、子どもを守れ、黒人の命を奪うな、といった、キング牧師の思い描いたような「夢」でもなんでもない、ごくごく当たり前のことを言った若者がなぜここまで酷い目に合わされたのか、なぜこの組織はこんな風に終わっていってしまったのか、なぜいまでも状況が変わらないのか、と。なにしろ90年代の前半といえば、ロドニー・キング事件があったのだから。

 

 ヒューイ・ニュートンは黒人コミュニティを「国内植民地」と呼びながら、その状況を変えて、このアメリカで自分たちは自由になるのだと主張して、当時ひとつの「流行」にすらなっていたアフリカ回帰、それは文化的な回帰だけでなく、実際にアフリカ系アメリカ人だけのアフリカのような国を作るということも含めての、ひとつの思想であり運動としての潮流を、頑として受け入れなかった。彼にとってそれは命をかけてまで求めるような現実的な解決策ではぜんぜんなかったからだ。

 

 映画『パンサー』とヒューイ・ニュートンのことを思い出したのは、バルティモアで起こった25歳の黒人青年フレディ・グレイの警察による殺害事件と、それへの抗議行動の報道を見たからだった。

 

Freddie Gray rally

Baltimore police seek fix to 'broken relationship' amid Freddie Gray protests | US news | The Guardian

 職務質問という名目で警察の車の後部座席に押し込められ、首の骨を折られて死亡した25歳のグレイの葬儀にはコミュニティの多くの黒人たちが弔問に訪れた。この事件の報道のなかで、実際にそう言った黒人がいたのかもしれないが、「Freddie Gray was me」という言葉が使われた。それは、家族の弁護士が抗議に参加するひとたちについて言うように、「われわれがここにいるのは、フレディ・グレイ自身と知り合いだったからではなく、われわれが多くのフレディ・グレイを知っているからです。あまりに多くの。」ということだからなのだ。映画『ミシシッピ・バーニング』のなかである黒人が言った、「彼は悪いことはなにもしていない、なにか問題を起こしたわけでもない。問題だったのは、彼の肌の色が黒かったことだ」という台詞が思い出される。容疑者の6人もの警察官はこの犯行を否認し、ひとりは黙秘しているらしい。暴動が起こったのは、グレイの葬儀の後、ちょっとした小競り合いが発端だったという。

 

 名前も知らないアメリカの、あえて付け加えると白人の、ある歴史家にとって、パンサー党は、アメリカの歴史という「大きな」歴史の流れのなかでは、波風一つ立てることの無かった、歴史を一ミリも変えなかった、取るに足りない小さな組織でしかない、チンピラみたいなものであるらしい。研究する価値すらないそんなものたちを取り上げる意味が分からない、と詰め寄られたこの国のある学者は、白人のアメリカ人に言われたせいか?それを認めて反論すらしないていたらくである。

 

 だれしもこんな事件にはもううんざりしている。パンサー党が結成されてそろそろ50年が経とうとしている。そして、ニューヨークのジャスティス・リーグのような若い人びとは状況を変えようとしている。抗議行動では「黒人の若者はゴロツキじゃない」というプラカードが掲げられている。ケンドリック・ラマーはヒューイ・ニュートンを尊敬している。ルーペ・フィアスコはアメリカを愛している。ジャスティス・リーグに注目しつつ、誰がなんと言おうと、もう一度パンサー党の文献を読み直さねば!