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Kalief Browderを忘れない

気の滅入るニュースばかりである。
もちろんサウスカロライナ州チャールストンでの妄想サイコパス人種主義テロリスト野郎によるテロリズムは、その事件自体の残酷さのみならず、この事件のすぐ後メディアが間髪入れずにこの事件を「ヘイトクライム」と呼んだこと、「テロリズム」ではないとはっきり言う議員、頭の悪い田舎者の判事が犠牲者は9人の殺された黒人だけではなく、犯人の家族も犠牲者だとわけのわからない必要のない発言をしたこと、奴隷制度に支えられた南部13州の「誇り」の象徴である旗を降ろせだの降ろさないだのとの議論(南部のラッパーはほとんどこの問題(旗)に冷淡であること)、そして多くの有名な黒人アーティストがすぐにこの事件に反応したことと、人種主義とか人種問題の根深さと複雑さを改めて感じたのであるが、個人的にもっとも衝撃的だったのは、犠牲者の家族が犯人に向かって「わたしは、わたしたちは、あなたを赦します」と静かに何度も言う映像とそれを聞くふてぶてしい犯人の様子だったのだが、この事件の前に起こって、ここ最近ずっと悲しくて悲しくてもう心が潰れそうに落ち込んだ事件は、6月6日のKalief Browderの自殺の事件なのである。

ブロンクスに住むKalief Browderは16歳(2010年)の時にバックパックを盗んだ
という言いがかりによって、本人は一度も罪を認めなかったし、証拠もないにもかかわらず、そして裁判すら行われない状態で、30万円の保釈金が払えずに、リカーアイランドの悪名高い刑務所に3年間放り込まれた。司法取引には一切応じなかった、なぜならば自分の犯していない罪を認めるなどといったことが正しいこととは思えなかったからだ。3年間のうち、ほぼ2年間は独居房に隔離された。毎日毎日看守から、そして囚人のギャングから暴力を振るわれた(その様子を捉えたビデオ映像は、Kaliefが釈放された後にオンラインで、もちろん本人の許可のもとで公開された)。想像を絶する身の毛もよだつような恐ろしい刑務所での3年間、何度も自殺未遂をおこなった。入所前にはなんら精神的な病歴などなかったにもかかわらず。そして3年間の刑務所生活のあと、何の説明もなく釈放された。

 勇気ある彼は、刑務所で経験した自分の話を公にした。インタビューで、テレビ
で。この勇気ある行動によって、彼の話はいろいろな多くのひとに彼に支援の手を差し伸べさせた。彼の話を最初に取り上げたのはThe New Yoker上で、Jennifer Gonnermanだった。彼女のすばらしいKaliefについての記事と、彼自身の勇気ある行動によって、彼は出所後からこの2年間、いろいろとサポートを得ることになった。たとえば、ブロンクスのコミュニティ・カレッジで勉強するお金を匿名で出してくれる人が現れた(そのひとはGonnermanの記事を読んでいた)。出所後半年して自殺未遂をしたので精神科にもかかっていた。またあるいは、虐待される映像をオンラインで見ていたジェイZは彼に会って話をした。女優でコメディアンのロージー・オドネルは個人的な付き合いを持って彼を支えようとした。ロージー・オドネルの書いたカリーフにささげられた詩では、彼がジェイZに会えて心底喜んでいたこと、オドネルとジェイZとカニエは彼のことをほんとうにすごい人だと話していると彼に伝えたことがつづられている。だがこの喜びは、Gonnermanのみるところ、「多幸症」のように見えるものだったらしい。ジョン・レジェンドはこの4月にFree Americaという運動を立ち上げて、刑務所に入れられている16歳とか17歳とか、もう子どもと言っていい少年少女たちを大人と一緒に収監しないなどかなり具体的な要求をNY市につきつけた。この件についてはRaise the Ageという運動が同じように尽力している。そしてジョン・レジェンドはKaliefの死に関してのエッセイも書いた。Kalief Browderの写真はどれも、深い深い悲しみと苦しみと絶望とぜったいに癒すことのできない傷が刻みつけられたさびしい顔をしたものばかりだ。彼の勇気ある行動に引きつけられた人々とのつながりによって、彼は一人ではなかったんだと、ほんの数枚の笑顔の写真を見て救われる思いがするものの、Gonnermanの言うとおり、彼の魂の奥深くに根づいてしまった彼の苦しみは、そういったことで癒えるようなものでは到底なかったのである。彼は死ぬ1時間前にオドネルとメールのやり取りをしていた。最後に母親と交わした言葉は「もう耐えられない」だった。もう何度も何度も死のうと思っていたのだ。彼が自殺した時、「彼はとうとう自殺をやり遂げた」と報じたメディアもあったぐらいなのである。そして、これはあまり報じられていないような印象を受けるのだが、彼が死んだのは、再び、いわれのない罪によって裁判所に出頭しなければならなかった日の前の日だったそうである。

彼はヒーローだと言われて、多くの人が彼の死を悼むために集まったし、彼の受けた虐待の映像が公開されて以後、また自殺を受けて、刑務所の改革が急速に進み始める気配を見せてきたのだが、この自殺の事件を知って心を痛めているだけの人間に言われる筋合いのことでないし、そんな資格がないことはもちろん百も承知なのであるし、Kaliefは何千人とも知れない同じような経験をしている若い黒人の一人であって、今この瞬間にもあの忌まわしいSolitary confinementと呼ばれる独居房のなかで虐待を受けたり、自殺をしたり、殺されたりしている少年少女がいて、たまたま彼が勇気のある人物だったために、たまたまつぶさに彼の経験が明らかになっただけなのはわかるのであるが、彼はヒーローや有名になりたかったわけでもなく、ただただ10代の後半をみんなと同じように普通に過ごしたかっただけであるし、こんなことは何十年も前からアンジェラ・デイヴィスをはじめとして問題化され続けているにも拘わらず、なぜ3年も、なぜその間にだれかなんとか助けてあげられなかったのか、なぜなぜなぜ・・・とそればかりを考えてしまうのである。ニューヨーク市長のデブラシオは彼の死を無駄にしないといったらしいが、死を無駄にしないとか、死の顕彰とか、そんなものなんかではなく、彼は生きていたかったし、楽しく生きたかっただろうし、彼は強く勇気ある人間だったから、誰もが同じ目に合わない様にと自分の体験をかったったのであるが、権力を持つ人間としてその前にやれることがあったんじゃないのかなどと、力を持たない人間として(を口実にして)文句を言いたくもなるのである。

 

Kaliefが生まれたのは1993年、その2年後の『現代思想』に掲載されたアイス・キューブとベル・フックスとの対談の中でアイス・キューブは「この国で黒人であることはきついことだよ」と言ったわけだが、黒人であることのきつさは、命や身の安全がまったく保障されていないというところにあるだろう。道を歩いていれば警察に襲撃され、正義をつかさどっているはずの裁判所は機能しておらず、ギャングのうようよいる刑務所のなかでは生き地獄を味わわされ、そして死んでいく。なにもしてないのに、である。ただ黒人であるというだけで。緩慢なテロリズムではないか。このような状況では、Kaliefが望んでいた高校の卒業証明書をもらって、プロムに出て、家を出て独り立ちし、大学へ行くとか働くとかの選択肢があって、恋愛をし結婚をしたりしなかったりして・・・という、まったく何の変哲も無い生活を送ることは逆に奇跡的なことなのではないだろうかという気にすらなってくる。

Kaliefは彼の7人の兄弟の末っ子だった。7人のうち、5人は養子だという。彼の母親は分け隔てなく彼らをかわいがり、そして、Kaliefのことは「ピーナッツ」とよんでとてもかわいがっていたといわれる。彼女は見るからに肝っ玉母さんな恰幅のいいお母さんなのだが、Music.Micが伝えたように、彼女はKaliefをこんな風に失って自分が死ぬまで地獄の苦しみだと言っている。

この間、もうまったく音楽についてフォローする元気がなかった。ラッパーに期待するとか、音楽で救われるとか、そんなの嘘っぱちだという気にすらなっている。それでも家では音楽が流れている。そしてそんな時に限って流れているのが、たとえば、2010年のギル・スコット・ヘロンの最後のアルバムI'm New HereのThe xxのJamie xxによる2011年のリミックス版We're New Hereだったりするのであって、ギル・スコット・ヘロンの歌う「NY is killing me」というのはKalief、ひいてはKaliefSのことだろうか・・・とすべてがKaliefにつながっていってしまって、もうそこはかとなくただただ悲しいのである(だがNYがKaliefを殺したことは間違いない)。D'Angeloが新しいアルバムの準備をしているらしいのだが、最近彼が、元パンサー党のボビー・シールと会って話したという話題を目にして、そこでD'Angeloは、音楽で社会を変えられると言うのだし、自分のほかにはケンドリック・ラマーぐらいしかそんな力のあるやつは最近はいないねと自分の音楽が社会を変える力を持つという自負とともに語るのであるが、Kaliefの自殺の前ではその言葉もすっかりかすんでしまったのである。だけど、とおもうのだ。そういうものがなかったとしたら、われわれに残されるものとはなにがあるだろうかと。こんな狂った世の中に、サグライフ(チンピラごろつき生活)賛歌のくそったれソングやらあなたが好きだの嫌いだのといったどうでもいい独り芝居音楽だけだとしたら、それこそこの世の終わりではないか。

 

 ケンドリック・ラマーではないが、誰かがKaliefのことを、あるいは多くのKalief(Kaliefたち)について、どんな形でもいいので歌ってくれますように。そしてKaliefの人生の上っ面をなぞっただけの凡庸な映画などぜったいに撮られませんように。

 

今回のメモのソース

 

www.newyorker.com

mic.com

www.ny1.com

Rosie.com

abc.go.com

その他