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「レペゼン」の美学

 最近NASIllmaticを聴きなおしていて、「レペゼン、レペゼン!」("Represent")がやけに耳に残り、そういえば、とおもったのだ。とくに専門的な学術的知識に裏付けられるまでもなく、場所=hoodというのは、ラップにおいて重要なテーマであり、要素であるのだとおもうのだが、最近はどうなのだろうか、と。というのも、つい先日、フランク・オーシャンが新しいアルバムの準備をしているという記事を見つけて、フランク・オーシャンの過去の動画をいろいろ見ていたついでに、ギャングスタ・ラップに退廃性を付け加えたようなオド・フューチャーの過去の記事や動画を見ていて、黒人ゲットーというのがそういうものとして構築されたものであるのだから生まれた場所から生涯離れられない黒人が多く、ラッパーというのは、その生まれた場所を「レペゼン」しているのだとおもうのであるが、たとえば、ラッパーではないがフランク・オーシャンはカリフォルニア生まれのニューオーリンズ育ちでハリケーン・カトリーナの後にカリフォルニアにやってきたと何かで読んだし、アール・スウェットシャツのお父さんは南アフリカの有名な詩人(ちなみにお母さんはカリフォルニア大学の先生)、タイラー・ザ・クリエーターはカリフォルニアのなかでもリゾート地で有名な場所(名前を忘れた)の周辺(本人は貧乏だといっている)の出身、The InternetのSyd tha KydとMatt MartianもそれぞれLAとジョージア出身なので、グループ内で「レペゼン」できる場所というのはいったいどこになるのだろうか、と素朴におもったのである。単に「アメリカ」やカリフォルニアったって、広いっすよね。(たいへん余計なことなのだが、Syd tha Kydのあの見た目によらない美しい声とThe Internetの洗練された音およびフランク・オーシャンの優しい曲と歌声をきくと、なぜにこの方たちはオド・フューチャーと一緒にやられていたのか、いや、ほんとにメンバーなんですか?とまったく不思議である。真逆な気がするのだが、ビデオを見ると通じるものを感じるときがある、というのはそれもそのはずで、タイラーがアイデアをくれることがあるとシドが言っていたのをどこかで聞いた)。また、WaleはワシントンDC生まれだが両親は生粋のナイジェリア人で高校はメリーランド、カニエ・ウエストだって、シカゴ出身といわれているけれど、生まれはジョージア州アトランタであるのだし、ルーペは自分を「グローバル市民」というわけだし、こういった場合、いったいなにを「レペゼン」しているということになるのだろうか。ラップにおける「レペゼン」とは過去のものなのだろうか。「レペゼン」の現在はいったいどうなっているのだろうか・・・?

 

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 こういった疑問は、メモを続けて徐々に明らかになればいいな、ぐらいなもんなのであるが、世界を見渡せば、ラップ研究で博士号が出る時代なので、ラップについて書かれた学術的なものは腐るほどあって、かなり古いのであるが2000年にMurray Formanというヒップホップ研究で有名な学者が'Represent':race, space and place in rap music" (Popular Music, 19:1, Jan. 2000, pp. 65-90)という論文を書いていた。疑問を解く手がかりでもなんでもないが、そこに、パブリック・エナミーのチャックDによるかなり興味深い「ポッセ posse(仲間)」についての言及があった。著者Formanいわく、

 

パブリック・エナミーのチャックDにとって、ポッセの形成は資本主義の断片的影響への必要不可欠な応答なのだ:「その枠[資本主義]の内部に存在する唯一の方法は、「「ポッセ」あるいはチームを作る以外になく、それは、一人一人では壊すことのできない鉄鋼建築物のように強い構造、大きな塊に入り込むことができる唯一の手段だ」」

 

そしてこの、もちろん地域色(コンプトンとかブロンクスとかマイアミとか)のある、つまり「フッド」を基盤にした「ポッセ」という関係に支えられているのが、アーティストを抱えたラップのレーベルである、ということは、ラップはそういうものに支えられているということなのであるが、パブリック・エナミーは、さすがに自分たちのチームを「パブリック・エナミー」と名づけただけあって、いろんなことを考えてラップをつくっているんだなとつくづくおもうのだが、いまやラッパーでかつセレブなカニエ・ウエストに向かって、お前のフェイクな嫁[キム様]と一緒にアメリカから出てけ!と罵声を浴びせたのはたしかチャックDだっただろうか、ということはどうでもいいのだが、「フッド」や「ポッセ」や「レペゼン」やなんやらかんやらはいまどんな状況なんだろう(もとの疑問に戻っただけである)?

 

ただ、意識的に目にしないだけかもしれないが、たとえばJ.ColeがTLCをフィーチャーして作った、警官のWar on Drugの捜査で殺されてしまった7歳の黒人の女の子に捧げた曲と映像とか(悲しすぎて2度は見れない)、もちろんケンドリック・ラマーとか最近の若い人たちのラップを聴けば、昔のように銃とか裸のお姉さんとかでかい車とかそんなものが無駄に溢れた映像は少なくなったような気はするわけだし、2014年のIllmaticツアーでNASはなおも「ヒップホップは死んだ」と言うのであるが、「レペゼン」してようとしてまいと、ラップは悲観する状況ではない気がする。

 

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映像は悲しすぎるのでライブ版

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ちなみに、観客はノリノリであるが、ノリノリになれるような内容ではない。思い出しても泣いてしまう。内容が聞かれず、音楽が消費されている良い例ではないだろうか。わざわざ「プロテストソング」などと呼ぶ必要は無いし、音楽として良い曲である。しかし、これは、楽しい曲ではないはずだ。なんなのだろう、このずれは。J.Coleの顔がCrookedに見えるのはたぶん地ではないだろうとおもいたい。