アイズリーでなくジャネット

 アイズリー・ブラザーズは偉大であると言っておきながら、ジャネット・ジャクソンである。ジャネット・ジャクソンについてはどこかで必ずメモっておかなければとずっとおもっていて、というのは、R&Bというと美しいメロディーにのせて愛を歌う、ぐらいの知識しか持ち合わせておらず、ラブストーリーではなくセックスストーリになってしまった黒人の音楽についてのポール・ギルロイの小難しい批判的考察をひくまでもなく、R&Bのアルバムのジャケットは男はいつも上半身は裸だし(勝手なイメージ)、歌っている内容は突き詰めていけば失恋か恋愛(とくに性)か、とにかく愛なのであって、メロディもなにか物足りなくてずっと聞いていなかったなかで、ジャネット・ジャクソンだけはちょこちょこと聞いていたような記憶があり、ちょうどケンドリック・ラマーがgood kid, m.A.A.d. cityとTo Pimp A Butterflyでジャクソン兄妹をサンプリングしていて、ジャネット・ジャクソンは自分にとってクイーンであるとまで言っているので、せっかくのついでだから長年知りたいと思っていたジャネット・ジャクソンのことを書いておきたい。

 

(Columbia Pictures, Getty Images)

Does Janet Jackson Like Kendrick Lamar’s ‘Poetic Justice’? | Yahoo! On the Road - Yahoo Music

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 ジャネット・ジャクソンを聞いていた自分にとってgood kid, m.A.A.d. cityは最初、ああ、ジャネット・ジャクソンのanytime, anyplaceのやつね、で記憶されたアルバムであった。ケンドリック・ラマーが、ジャネット・ジャクソンの"Anytime, Anyplace"をサンプリングした曲の題名をわざわざ、ジャネット・ジャクソンとTupacが共演し、『ボーイズン・ザ・フッド』のジョン・シングルトンが監督したPoetice Justiceとしたことは、このふたりへの並々ならぬ敬意が感じられるのであるが、ジャネットが認めてくれるといいけど、とケンドリック・ラマーが心配するまでもなく、ジャネットは、彼のこの曲を聴いているし、大好きだと言うのであるし、自分の曲がほかのアーティストにインスピレーションを与えることを喜んでもいるのである。この記事によれば、2013年は、たしかこの曲も入っていたとおもうJanetというアルバムの20周だったらしいのだが、なぜこのアルバムがそれほど話題かというと、700万枚(!)を売り上げたらしいのであって、ジャネット・ジャクソンの曲も、ケンドリック・ラマーだけでなく、ブリトニー・スピアーズビヨンセやシアラやケリー・オーランド(だっけ)など、他のアーティストたちに多大なる影響を与え続けているということなのだ。

 

 ちなみに、To Pimp A Butterflyが出た後でいまさらながらなのであるが、ケンドリック・ラマーのPoetic Justiceはこういうのなのである。

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  まあ、Poetic Justiceだしね、コンプトンだし、こんなもんかなとおもうんだけど(とりあえずドレイクはどうでもいい。ドレイクの場面はドレイクらしいではないか)、ラマーがインタビューに答えて言うには、この女の子がこの映像のなかでは非常に重要な存在らしいのだし(ラマーのなかではもちろんジャネットだから)、そもそもこのビデオにぜひジャネットを!との希望(というか祈りにも似た懇願)もあったとのことで、この曲とこの映像にかける意気込みとジャネットへの愛は相当なものだったらしいことが伺えはするのである。

 

 でもここでメモっておきたかったのは、ケンドリック・ラマーのことではなくジャネットだった。多くのアーティストに影響を与え続けているジャネット・ジャクソンの曲とビデオのなかでもこれは並外れてすばらしいとおもうもののひとつが、"Got 'til It's Gone"で、長年この映像の謎を解きたかったのである(そしてその機会ができたのはケンドリック・ラマーのおかげである、と必要も無いのに言っておきたい)。

 

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  ジョニ・ミッチェルの"Big Yellow Taxi"をサンプリングし、Q-Tipのラップも入れたこの曲は、ジャネット・ジャクソンのある恋愛の経験から得た「教訓」を歌った他愛も無い失恋というか、別れてしまった男女の歌なのであるが、ビデオは、この歌詞の内容でなぜこの映像なのか?というものなのである。設定は、どうみても、人種隔離された場所であって、おそらくは白人の前では抑圧し隠しておかねばならない「心身の自然な要求」を発露させる密やかな営みが行われている、そういうイメージであって、踊っていたり笑っていたりするのに楽しい映像とは言いがたく、どこか物悲しさとか神秘さとかそのようなものが漂う映像が忘れがたく頭にこびりついてずっと離れなかったのだ。それで、いろいろ調べていると、実際これは、Mark Romanekという監督が、南アフリカのDrumという文化雑誌を見ていて着想を得たらしく、その雑誌に載っていた写真がびっくりするくらい魅力的だったらしく、それに触発されて、アパルトヘイト前の南アフリカという設定で、物質主義やセクシュアリティに取り付かれた当時のヒップホップのビデオとは違う黒人文化についての映像を作りたかったというようなことを言っているのである。

JoniMitchell.com Library: Video Collection

 

 このように監督が言うように、最後は「ヨーロッパ人限定」と書かれた看板らしきものに酒瓶が投げつけられる場面で映像は終わるのであるが、この監督は、映像を作る前に、ジャネット・ジャクソンの曲をおそらくは、次のようなものとして聴いたのかもしれない、と妄想したくなる。いま読んでいる『ファンク』(リッキー・ヴィンセント、BI Press、1998年)という本のなかに、ニッキ・ジョバンニという詩人がファンクについて次のような詩を書いているのが引用されている(173-174頁)のだが、彼女はファンクを「革命的音楽」としてこう言う、

好きにならずにはいられない

スライ・アンド・ザ・ファミリーストーン

歌詞なんかどうでもいい

あの音楽に合わせて踊らずにはいられない

・・・・(中略)

あの強力な強力なインプレッションズが

世界にむかってはっきり

言ったように

「我らは勝利者」なのだ

リロイが言ったように、ソウルのグループは名前も共通している

インプレッションズ(=印象)

テンプテイションズ(=誘惑/魅惑)

スプリームズ(=至高の存在/頂上)

デルフォニックス(=フィラデルフィアの音)

ミラクルズ(=奇跡)

イントゥルーダーズ(=侵入者)・・・

 

 ジャネットのこの音楽と映像には、上のソウルグループの名前に付けられたこれらの名詞がぴったりなのではないかと、改めて映像を見て感じるのである。

 

 

 

 

世紀の大騒ぎ

 はっきりいってケンドリック・ラマーが好きである、というか愛しているといっても過言ではない。そのケンドリック・ラマーの新しいアルバムが一週間早まった発売から2週間も送れて我が家に届いたのであるが、その間、それはもういろんなところで、新しいアルバムのレビューラッシュであった。悔しいのであまり見ないようにしていたのだが、たとえばweb版ローリング・ストーン誌で「2015年はD'AngeloのBlack Messiah とケンドリック・ラマーのTo Pimp Butterflyによって、黒人のラディカルな政治とブラック・ミュージックが蘇った年として記憶されるだろう」と言われたように、いろんなところでディアンジェロの『ブラック・メシア』とやたらに並べられているのが気になってはいたのである。ディアンジェロの『ブラック・メシア』も発売後は大絶賛で、ギャングスタ・ラップの隆盛期といま思えばぴったり一致する自分のR&B忌避期にアルバムを出していたディアンジェロはずっと食わず嫌いだったのであるが、いろんなWEB雑誌のbest of 2014なるランキングの上位に『ブラック・メシア』が必ずあがっていたために、つい買って聞いてしまって、そのあまりの美しさに涙を流してしまい(泣きすぎである)、『ブラック・メシア』を入れてもこれまでわずか3枚しかアルバムを出していないディアンジェロの過去のものを慌てて聞きなおしているところなのであるが、『ブラック・メシア』は、その音楽的な豊かさのみならず、それが2010年代に入る前後の世界的な動乱とアメリカでの黒人の射殺事件とそれをめぐる運動を背景に出されたものであるという点に批評の焦点が当てられていると同時に評価されているようであり、そういった点ではケンドリック・ラマーのTo Pimp A Butterflyもそれに通じるものを持っているのかもしれないと、ぼんやりとした感想を抱きはするのである。

 

 もちろん、どういったことを歌っているかは大いに気になるところなのであり、今後徐々に少しずつ紐解いていかねばならないとおもってもいるし、本人が不当に感じようと、それが結果的に政治的なものと受け止められてしまうことを本人はどうしようもないのだし、それが結果的にそうなってしまうということそのこと自体はすごいことなのではないかとおもってしまうのだが、今日メモっておかねばならないとおもっているのは、なによりもまず音楽として楽しめるTo Pimp A Butterflyの音楽的な側面についてのことなのである。

 

 Complex Newsというところが、'A Breakdown of the Samples From "To Pimp  A Butterfly'という3分間ぐらいの短い報道をやっていて、そこで、このアルバムにどんな曲がサンプリングされているかを紹介してくれているのである(もちろんラマーのアルバムを聞いただけでも、あっ!聞いたことある!(程度の知識である)とわかるものもある)!

 


A Breakdown of The Samples From "To Pimp A ...

 

  アルバムはBoris Gardinerの"Every Nigger Is A Star"ではじまり、"King Kunta"で使われているのは、次の三つ

ジェイムズ・ブラウンの"The Payback"

・Ahmadの"We Want The Funk"

マイケル・ジャクソンのSmooth Criminal

 "Momma"では、ダニー・ハサウェイの娘のララ・ハサウェイの"On Your Own"、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンの"Wishful Thinking"、ほかにも、Zappの"Computer Love"。

 "Hood Politics"には2010年のSufjan Stevensの"The Age of ADZ"というアルバムからのサンプリングもあるそうで。

 グラミー賞を取った"i"には、アイズリー・ブラザーズの"Who's That Lady"、そのほかアフロビートの伝説Fela Kutiの"I Know Get Eye for Back"("Mortal Man"に使われているみたい)、ビースティ・ボーイズの"Year and a day"。

 それで、最後は94年のTupacのインタビューが引用されて、Tupacとケンドリック・ラマーが対話するという試みがされている。

 

 この動画のコメントのなかに、ケンドリックとこんにちのラッパーたちは、音楽への本当の敬意、本当の芸術性、メッセージを持っているということが成功をつくりあげるということを示してくれている、というようなものがあったのだが、そもそもそういうところからラップは始まっているはずであって(初期は本人たちには成功しようとかいう気持ちはなく、そういうものがたまたま成功した)、トリシア・ローズが『ブラック・ノイズ』のなかでラップの音楽的要素と音楽テクノロジーの重要性を指摘し、それこそがラップの発展における決定的側面であると同時にぜったいに欠くことのできないものだと言っているように、ラップが楽しいのは、過去の音楽に出会えること、この音楽がこんな風になるの?!という驚きと感動があるところにあるとおもうのである。だったら、その過去の音楽を聴けばいいじゃないか、とおもわれる向きもあるかもしれないが、そうではない。若いアーティストによって新しい文脈のなかで再構成されたよりいっそファンキーだったりメロディアスだったりする音にのった過去を踏まえた未来主義の語りを聞くのは心の底から楽しいのである。

 

 そういえば、トリシア・ローズはHip Hop Warsのなかで、ほとんどのレーベルが大きな5つぐらいの会社の傘下に入ってしまって、会社に都合のいい(=売れる)ラップしかラジオでもテレビでもやらなくなってしまったことを痛烈に批判しているのであるが、そのなかで、当時有名だった50centとThe Gameのあいだでおこったいわゆる「ビーフ」(ラップでお互いに攻撃しあう)について、どちらの所属するレーベル(50centはInterscope、The GameはGeffen)も同じUniversal Music Group傘下だったのだから、どこか管理されてる感がいなめなかったことを指摘しているのであるが、売れてる(た)ギャングスタラップのビーフラップなんて所詮その程度のものなのであった。

 

 それにしても、もちろんケンドリック・ラマーの新しいアルバムは野生的(野心的ではない)で、ファンキーで、解放的で、聞いていて楽しくて良かったのだし、しばらく何度も聞かねばならないなと感じているのではあるが、ここにも登場したアイズリー・ブラザーズはやはり偉大であると感じたのである。ベスト・ラップ・パフォーマンス(だっけ?)かなんかのグラミー賞をとった"i"は、一回観ただけなのであるが、パフォーマンスにそのときは気をとられていたのだが(そのくらいよかった)、アルバムを聴いて音楽のすごさをいまじわじわとやっと感じ始めているところである。

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オバマとラッパーの容易ならざる関係

 オバマが大統領に当選した時、なにかで目にして、その時以来頭を離れない言葉があるのだが、それは、アイス・キューブオバマ当選に際して感想を聞かれたときの答えで、たしか、俺のおふくろが今後どうなるかを見なけりゃなんともいえないね、というような、かなりそっけない答えで、その意味は、俺のおふくろ、つまり黒人コミュニティの住人の暮らしぶりが良くなるのか悪くなるのか現状維持なのか、まあ、お手並み拝見させてもらうよ、という程度のものだとおもうのであるが、要するに大統領の肌の色は関係ない、なにをしてくれるかが問題だ、ということなのであって、あの熱狂のなかにおいて、途轍もなく当たり前で冷静な意見だったため、妙に新鮮で、忘れられない言葉のひとつになっているのである。

 

 オバマの大統領当選は、たしかこの国でも、何に期待をしてのことだったのかまったく覚えていない、というかわからないのだが、初の黒人大統領というので大いに盛り上がった記憶があるのであるが、たしかにほんの40数年前までその肌の色のためだけに投票権すらなかった人種のなかから大統領が誕生したということの衝撃は、アメリカ本国でならずとも大きかったということだろうとおもうのだが、ここでメモっておきたいのは、そういう高尚な(?)議論などではなく、やはりラップのことなのである。

 

 ヒップホップ世代でヒップホッププレジデントと呼ばれたオバマは、割り切った言い方をしてしまえば、若い人びとの票集めのためにラップを利用した。ほんとうにラップ好きだったかどうかはわからないが、ジェイZが好きだと言って憚らなかったし、インタビューやスピーチでラップに触れていたのは有名な話だし、何人ものラッパーとのツーショット写真が探せばごろごろ出てくるし、そういったラッパーのほうもがんばってオバマキャンペーンをやったのだ。ちなみにあれから7年、相変わらず、たとえば若いケンドリック・ラマーはコンプトンの貧困や暴力をラップしなければならない状況である。だが、それだけでなく、多くのラップの歌詞にも、オバマの名前が出てくるようになったのであるが、おかげさまで、支持であれ批判であれ、その中からいくつかの忘れがたい素晴らしい曲が生まれた。

 

 真っ先に挙げねばならないのは、NASのBlack Presidentだ。サビの部分では、Tupacの「天からの恵みみたいだけど、おれたちにはまだ黒人大統領を受け入れる準備なんてできていないよ」という"Change"からの言葉を引用し(というかtupacの声、というか、これがサンプリングである)、続けてオバマのYes, we canという言葉をサンプリングして、change the worldと歌い上げるのだ。だがここでおもしろいのは、NASはそのtupacの言葉の前にオバマの声で"they said"を入れるのである。つまり、自分たちにはもうその準備はできている、できていないと言うのは、tupac=俺らではなく、「彼ら(They)」である、と。サンプリングの本領発揮ではないか。そして、黒人大統領の誕生でKKKが「殺してやる!」と盛り上がる(だろう)反面、オバマは希望を与えてくれるし、すべての人種や肌の色の人びとのなかの憎しみを消してくれるだろうとNASは期待するのである。

オバマアイオワ州での勝利演説における「そんな日は決してやってこない、と彼らは言った」という演説は有名だ。

 

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 この映像の中に響き渡るオバマのYes, we canという言葉は感動的である。何度も繰り返し現れるこの夢を見果てぬままにその生涯を終えてしまったTupacのうつむいた表情、それと何度も重ねあわされる演説をするオバマ、ワシントン大行進、暗殺前のキング牧師、ストリートでのいざこざ。オバマを支持するものであるが、押しつけがましくないささやかな期待を表明すると同時に、Tupacへのオマージュであるこの映像を涙なくしてみることはできないのであった。いまとなっては複雑であるが、この曲と映像の価値が下がるものではない。

 

 それで、なぜこんなことをいまさら思い出したかというと、最近、ルーペ・フィアスコの2006年と今年1月に出たばかりのアルバムを聞いているのであるが、ルーペ・フィアスコといえば、オバマ批判で有名なラッパーであるからなのだった。

Keeping a safe distance from rap(ラップから安全な距離を保つこと)は、賢明な戦略的手段なのかもしれないが、 putting politics before principle(信念よりも政治を優先させること)は、 オバマが主題とする「変化」というスローガンruns counterに反することだし、 そのことでオバマはいくつかのscathing attacks(痛烈な批判)にさらされることになる。 2011年2月に出したWords I Never Saidで、ルーペ・フィアスコは次のようにラップする。「ガザ地区was getting bombed(爆撃されていた)/ なのにオバマはうんともすんとも言わなかった/ That's whyだから俺は奴にはvote投票しねえ」 数か月後、このミュージシャンはCBSのビデオインタビューで批判をintensified (強めた)。「おれにとって最大のテロリストは、アメリカ合衆国オバマだよ」

Lupe Fiasco, 2011

How hip-hop fell out of love with Obama | Music | The Guardian

 

 このルーペ・フィアスコであるが、本名をWasalu Muhammad Jacoといい、モスリムを信奉する家庭に生まれ育った。信仰は篤いのであるが、いかにもな格好もしないし、自分がモスリムであることをわざわざ言ったりもしない、と本人は言う。そして、あるインタビューで彼は黒人の大統領についてこう言うのだ。

“My black president is Nelson Mandela. Africa has always had black presidents so, my scale, being a black president isn’t anything new. It’s new to America, yes, but I’m a global citizen, I look around the world. So my bar is someone who really fought for peace. Not someone who’s continuing wars around the world.”

 

「僕にとって黒人大統領はネルソン・マンデラだよ。アフリカにはいつも黒人大統領がいるだろ、だから、僕の基準では、黒人が大統領だということは、別に新しいことでもなんでもないんだ。もちろん、アメリカにとっては新しいことだけど、でも僕はグローバル市民だから、世界を見渡すんだよ。だから自分の弁護士(barってこの訳でいいんだろうか?)も平和のためにほんとうに戦っている人物なんだ。世界中で戦争を続けているようなヤツじゃないよ。」

 

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 そして、そのルーペ・フィアスコがオバマ批判をしたと言われるのがこの曲。

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 それでもルーペ・フィアスコは「この国を愛している」と歌わねばならないのであるが、その泣ける歌はまた別な機会に触れるとしても、やはりこれらの若いラッパー(NASは若くないがまだ十分いけるとおもう)の曲に触れると、ヒップホップが死んでいるのではなく、ギャングスタラップこそが死んだんだ、と確信をもって言いたくもなるし、ラップにこれからも期待してしまうのである。

「ヒップ・ホップは暴力を引き起こす」のか?

 「ヒップホップは暴力を引き起こす」のだろうか?たぶんこの問いは、古いものである。でも、この問いに真摯に取り組んだひとはあまりいない。というのも、ヒップホップが嫌いな人間にとって、警察を殺すことやギャングの抗争などの歌詞によって、そして実際に黒人コミュニティで起こっていることやラッパーやだれそれが死んだなどというニュースに日々接していれば、このことはあまりに自明のことのようにおもえるのだし、擁護する人間にとっては、それはただコミュニティの現実を描写したものに過ぎないということになるのであって、双方が双方を完全には否定しきれないために、問いの中身が真剣に検討されることはなく、その主張というものは、主張者の単なる頑なな信念めいたものになってしまうのだ。

 

 だが、このことを突き詰めて考えたのが、トリシア・ローズによるHip Hop Warsの第1章である。

 

 われわれは、暴力的な物語、イメージ、歌詞、パフォーマンスなどの溢れるポピュラー・カルチャーのなかに生きているにもかかわらず、なぜラップだけが暴力を引き起こす主要因として槍玉にあがるのか?それは、その担い手が、アフリカ系アメリカ人だからだ。批評家たちはこう主張する、ラップの物語は、ラッパーの自伝的な要素から成っており、ゆえにその物語が表明していることは、事実である、だから、ラッパーは犯罪者だし、黒人はそもそも犯罪傾向があり、ラップというのは犯罪のプロパガンダなのだ、と。

 

 たいして、ローズはこう主張する。ヒップホップは純粋なフィクションやファンタジーではないし、現実でもないし、暴力を支持する社会的表明でもないし、(生きられた経験や社会的状況から切り離された)個人のイメージの産物でもないし、(現実や個人的行動の正確な描写といった)社会学的記録や伝記でももちろんない。われわれが取り組まねばならないことは、もっとも危険でめちゃくちゃの状態にある黒人の都市コミュニティといった状況を作り出してきた差別や社会政策という現実を知ること、そして同時に、そのような地域的、社会的状況に深く結びついた行為を受け入れたり、その行為について言い訳をしたりしないことだ、と。ヒップホップの暴力は商品にされ、誇張されてきたが、都市コミュニティにおけるその起源や、これらのコミュニティがなぜそれほどまでに暴力的であるのかという理由については理解されねばならない、つまり、このようなラップが出てきたコンテクストを理解せねばならないというのである。

 

 ローズが重要視するそのコンテクストは、おもには5つある。

1.慢性的な高い失業率

2.十分な住居の欠如

3.ドラッグの売買が広がっていること

4.自動小銃と薬の売買によって成り立つ経済

5.それに対する行政の対応が、拘禁であること=黒人の刑務所の収容率が以上に高いこと

 

 こういった社会的コンテクストを無視して、ただラッパーを非難する、ということは、黒人コミュニティだけでなくアメリカ社会における暴力の放置になるというのであるが、ではこのことは、ただ現実を描写しているだけ、というラッパーの主張を擁護することにならないだろうか?

 

 ここからが、この章はおもしろいのだが、というのは彼女が容赦なくつぎのようにいうからだ、「はっきりしていることだが、われわれは、貧困の黒人コミュニティにたいする略奪行為という最悪の形態をつねに強化することで小賢しく儲けているアーティストたちには異議を唱えていかねばならない。ただし、かれらの環境という現実を否定しながらそうするのは意味がない」と。このとき、ローズが念頭においているのは、「儲かるという理由で、暴力的な物語とギャングを過度に強調し、美化する」ジェイZだ(そのほか、50 Cent, T.I. Lil' Wayneなどなど、やっぱりね、な面子である)。そして、暴力にかんして、偏見の無い、社会的に正しい関心の持ち方をすることで、焦点は、コミュニティが暴力をなくしていくよう直接手助けすることへと移っていくはずだ、と論じるのである。

 

 ジェイZに関心を持ったことは一度もないので、あえてミュージック・ビデオをみることもほとんど、というかまったくないのであるが、連想ゲームみたいでなんの関係も無いのだが、同じく嫁のビヨンセにもまったく興味がなく、ビヨンセといえば、その名前の最後のeにアクサン記号があることからもわかるとおり、フランス系の血が混ざっていることを本人がひどく自慢におもっているということが黒人のあいだで批判されていたことと、スーパーボールのハーフタイムショーのギャラがマドンナの半分だった(たしか)ということぐらいしかおもいつかず、つまりジェイZについては、この程度しか知らないし興味も無い嫁以上に関心がない、ということをただついでに言いたいだけなのである。それにしてもやはり、マドンナのハーフタイムショーでのパフォーマンスは、デスティニーズ・チャイルドのほか2名のメンバーを登場させてお茶を濁したビヨンセに比べて、やはり圧巻なのであった。ローズの本にもラップにも何の関係もない。

 

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非凡な若きラッパーの凡庸(そう)なショート・フィルム

 ケンドリック・ラマーの新しいアルバムのレビューがPitchforkというウェブで9.3/10点という高得点を得ていて、good kid, m.A.A.d.cityの9.5点にはほんの少し及ばないものの(この点数を参考にしているわけでも信用しているわけでもないけど)、勝るとも劣らない出来栄えなのだと、ますます楽しみになったのであるが(ちなみにそのレビューで10点満点を獲得しているのは、べつになんの驚きもないが、NASIllmaticである)、それとはまったく無関係に、たまたまChance the Rapperがショート・フィルムを作ったらしいという記事をVibeのウェブ版で発見して、今年前半はほんとうに音楽に映画にと豊作であるとうれしくなったものの、その内容がたいへんにツマラナそうなのであるが、いろんなことのついでにいちおうメモっておこうとおもう。その短編映画のタイトルがまた、「ミスター・ハッピー」というのであって、ケンドリック・ラマーのショートフィルムとは、そのタイトルからしてえらい違いで、内容に関しては推して知るべしと思えてしまうのである。

 

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 あらすじはとても簡単。

 この映画は、ヴィクターという名前の少年(Chance the Rappar演じる)の物語なのであるが、彼はa dead end job(将来性のない仕事)に行き詰まりを感じ、最近caught his ex-girlfriend cheating (元彼女が浮気している現場を見つけてしまい)on the verge of いまにも自殺しそうな状態である。さまざまな自殺を試みては失敗した挙句、ヴィクターはMr. Happy.comというウェブサイトを発見するのだが、そこは、the way he wants(彼が望むとおりの方法で)彼の命を絶つ手伝いをしてくれる人物を雇うことができるところだ。

 とても高価な買い物をした後で(=Mr. Happy.comで誰かに金を払った)、彼はa love interest(ある一人の恋愛の相手)にたいして新たな幸せを見出し、もはや自分を殺してもらう取り決めを続けたいとはおもわなくなる。この筋が濃密になってくるのは、ヴィクターと彼の新しい恋愛相手がヴァレンタインに差し掛かる日に姿を消すときだ(ヴィクターは死ぬ日を2月14日に選ぶ)。

 

 Vibeで紹介されている筋はここまでであるが、チャンスが主演のみならず、監督デビューも果たしたという約24分のこの短編映画を実際に観てみると、陳腐であるがひどくツマラナイわけでもない。

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 元彼女も新たな彼女もともに白人女性なのであるが、ちゃんと理由があるのである(という気がする)。

 

 だけど、チャンスの多才さは、こんな陳腐な短編映画のなかでなくとも観ることができる。ジェイムズ・ブレイクのLife Round Hereを最初にリミックスして公開したのはチャンスのほうだったのだが、そのときのアレンジとはまた違った雰囲気になっているふたりがコラボレーションしたこの曲のpvでは、チャンスの高音の歌声が聴けたり(インタビューでジェイムズ・ブレイクが褒めていた。チャンス・ザ・シンガーだよ、と)、ちょっとした演技が見られて楽しい。この映像自体も美しい。イングランドの田舎をふたりの乗ったオープンカーがただ走り続けるというだけの映像なのだが、白人中年女性と黒人男性のカップル、若い4人組のBガール(風)たち、喧嘩をする白人老人と黒人青年、白人のシスターと黒人の神父、なにかを企んでいる風の3人の黒人(らしき)青年たち、の前をふたりが通り過ぎていく、というただそれだけの映像なのだが、この最後の青年たちの前を通り過ぎるという場面でチャンスの見せるちょっとした演技が秀逸なのである。映像作家のNabilがただイングランドの田舎が好きなんだ、という理由だけで選ばれた場所であるらしいが、この映像は、美しく、透明で、同じく美しいジェイムズ・ブレイクのLife Round Hereにぴったりと合って、この曲とこのコンビにはこの映像しかないではないかとおもってしまうのである。

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 しかし、チャンスの短編映画やジェイムズ・ブレイクとのこの映像を見るたびに、人種問題というのは社会に、文化に、ひとびとの深層に、(そして自分自身にも)深く深く根ざしてしまいすぎているのではないかと、つい深く考え込んでしまうのである。なにかを見るときに白人とか黒人とか何人とかを考えずにすますことができる日というのは、生きているあいだに訪れるのだろうか。こんな美しい映像を、自分自身にうんざりしながらため息とともに観なければならないのはほんとうに残念である。

 

新しいアルバムについて語ったケンドリック・ラマー

 ケンドリック・ラマーを愛するひとすべてが待ちに待った新しいアルバムが3月23日に発売になるというので、アルバム発売が発表されて以来ファンは大騒ぎであるが、New York Timesが3月16日、17日にインタビューなどを載せていた。

 

Kendrick Lamar's “To Pimp a Butterfly." Credit Interscope Records on NYT

 

 17日の記事は、新しいアルバム↑に入っている曲がいったいどういった内容のものか、一曲一曲詳しく教えてくれているのであるが、16日の記事はインタビューを中心に、前作 good kid, m.A.A.d. cityとの違いとか、ラマーがどんな人物であったか、現在どんな人物でどんなことを考えているのかが書かれていて興味深いものとなっている。

 

http://www.nytimes.com/2015/03/22/arts/music/kendrick-lamar-on-his-new-album-and-the-weight-of-clarity.html?ref=arts&_r=0

 

 Following the success of his major label debut, “good kid, m.A.A.d. city,” in 2012, the rapper Kendrick Lamar did not indulge in earthly luxuries. Instead, he got baptized.

 「2012年にメジャーレーベルから発売されたデビューアルバム"good kid, m.A.A.d. city"が成功したからといって、そのあとラッパーのケンドリック・ラマーが、この世の贅沢にふけることはなかった。代わりに彼は、洗礼を受けたのだ」

 

という文章で始まるこの記事によって、発売を漏らしたある人物(名前を忘れてしまった)がラマーはこのアルバムでまたべつなレベルに達したよ、といような意味のことを言っていたことの意味がなんとなく分かったのだった。というのも、その発言を目にしたとき、ラマーのgood kid, m.A.A.d. cityはこれまでのラップと比べても十分べつなレベルのものだとおもっていたので、その先があるなどと言われて、恐れおののいてしまったのである。

 

 NasIllmaticにも勝るとも言われるgood kid, m.A.A.d.cityがラマーの「罪深い」昔の生活の日々に焦点を当てていたとしたら、新しいアルバムTo Pimp a Butterflyは、救済の物語、しかも単にラップをとおしたストリートギャングからの救済というだけでなく、イエス・キリストに帰依することによる罪深い生活からの救済の物語だというのだが、このアルバムには二つの特徴があるようだ。

 

 ひとつは、「救済」というテーマからも明らかなとおり、そして自分は自分の音楽を聴く人びとにとって牧師のような身近な存在だと自ら言い、「自分の言葉は神の言葉に比べればまったく力強いものではないけど、自分というものは、神の御業をなす器なんだ」と言うように、宗教的な側面があるということだろう。このことで、少なくとも、彼は、「主流のラップのいくつかに見られる豪華絢爛な虚言(とでも訳したらいいのだろうか?つまり、自分は何人殺しただの、ビッチには事欠かねえだの、ヤク売ってこんだけ儲けただのいったことだろう)にたいして、正しい、というかそれに代わりうるものを提示」することになっているのだろう、このアルバムは。ラマーは言うのである、ストリートで実際に生きていると、殺人やドラッグを売ることなんかについての自慢話なんか聞きたくないよ、子どもたちはそんなところからは逃げ出したいんだ、と。くたばれギャングスタである。

 

 もうひとつの特徴は、ラマーのブラック・パワーの熱烈な支持者/伝道者といった側面が存分に発揮されている点であるようだ。それは話題沸騰というか批判沸騰のThe Blacker The Berryの、批判の後に作られたか流された動画を見ても明らかだ。マルコムXの演説で始まり、ワシントン大行進、キング牧師、南部の公民権運動などなどの映像がちりばめられたこの動画は、最初見たとき、ラマーのミュージックビデオだとわからなかったぐらいである(今はどこを探しても見当たらないのだが・・・)。このアルバムでの黒人の歴史への敬意は、音楽やミュージシャンや運動やその時代の黒人運動が目指したもの(黒人のプライドとか、自分自身を愛することとか)から、ネルソン・マンデラにまで至るようである。

 

 だけど、ラマーはちゃんとこう言うのだ、「このアルバムを政治的なものと言うのは不当だよ、だってこのアルバムは、強さと勇気と誠意だけでなく成長と承認と否定とにあふれているんだから」「みんなに怒ってもらいたいし、幸せになってもらいたい、そしてうんざりだとおもってほしいし、居心地の悪い思いをしてほしいんだ」と。ギャングスタラップのビデオが表象する壮大な虚言で綴られる物語は、だれをもこんな気持ちにはさせないだろう。ただその時気持ちがいい気がするだけである。ラマーの音楽こそが、"keep it real"を超えた、真に"keep it surreal"と言えそうな音楽なのだ。

 

 ちなみにこのアルバムのジャケットについても説明されていた。この写真はフランスの写真家Denis Rouvreのもので、シャツを着ていないいろんな年代の黒人男性が、ホワイトハウスを背景に(!)、約1リットルの酒瓶と札束を握ってポーズをとっている写真なのであるが、ギャング=Comptonと政治家=Congressの並置によって、二つのあいだに違いがないことを表しているそうだ。歌詞のなかでも、"Demo-Crips"(Democrats民主党員とクリップスというカリフォルニアのギャングメンバー)"Re-Blood-icans"(Republicans共和党員とブラッズBloodsという同じくカリフォルニアのギャングメンバー)といった造語が使われているようである。愉快ではないか。

 

 トリシア・ローズのHip Hop Warsがもう4,5年先に出されていたら、間違いなくラマーは、「ストリートの生活についての陳腐な物語を刷新するために、創造的な言葉を使って、コミュニティを肯定するような方法を見つける」ことのできる才能あるラッパーの筆頭に挙げられていただろう。ラマーの新しいアルバムは、心の底から楽しみなのだ。

 

 

Tricia RoseのThe Hip Hop Warsを読む

 2008年に出版されたときに手に入れていたTricia RoseのThe Hip Hop Wars: What We Talk About Hip Hop-and Why It Mattersをいまさら読んでいる。トリシア・ローズといえば、ハーバードのアフリカン・アメリカン研究所につくられたHip Hop Archiveでも基本図書に挙げられるBlack Noiseというヒップホップの古典的な著書の著者であるが、今回の著作では、ヒップホップをめぐる論争において、ヒップホップを批判する人びととヒップホップを擁護する人びとが問題にする論点をそれぞれ5点ずつ、合計10点挙げて、その一つ一つを詳細に分析し、そのどちらの立場の人たちもが陥っている罠を明らかにしたものだ。ここで彼女は、基本的には、ギャングスタ・ポン引き・売春婦の三位一体イメージがラップの支配的なイメージおよび黒人ゲットーの物語として間違って広まっていることを指摘すると同時に、そういったモチーフに満ち満ちたギャングスタ・ラップを、アメリカの巨大な音楽企業体(当然トップは白人)が「売れる」と判断して、ラジオ局や音楽番組に金を払ってまで何度も何度も放送させる=宣伝させることの罪を激しく糾弾している。10の論点とはこんな感じ。

 

ヒップホップを批判するひとたちの主張

1.ヒップホップは暴力を惹き起す(Hip Hop Causes Violence)

2.ヒップホップは黒人の機能不全に陥ったゲットー文化を反映したものだ(Hip Hop Reflects Black Dysfunctional Ghetto Culture)

3.ヒップホップは黒人全体を傷つけている(Hip Hop Hurts Black People)

4.ヒップホップはアメリカの価値を破壊している(Hip Hop Is Destroying America's Values)

5.ヒップホップは女性の価値を貶めている(Hip Hop Demeans Women)

 

ヒップホップを擁護する人たちの主張

6.ただ現実的にやっているだけだ(Just Keeping It Real)=現実をラップしてるだけ

7.ヒップホップには性差別の責任は無い(Hip Hop Is Not Responsible for Sexism)

8.「実際にアバズレや売春婦はいる」("There are Bitches and Hoes")

9.われわれはロールモデルではない(We're Not Role Models)

10.ヒップホップでは誰も肯定的なことについて語ってなどいない(Nobody Talks About the Positive in Hip Hop)

 

 これらを各章で検討して批判しているのであるが、イントロダクションを読んで、単なる思い付きをメモっておきたい。

 

 ヒップホップはそもそもからその購買層は白人のティーンだと言われてきた。トリシア・ローズも1995年から2001年にはヒップホップの顧客基盤の70%から75%は白人であり、現在も変わらないと述べているのだが、ではいったい、黒人は、とりわけ当のラップが歌っている若い黒人はいったいなにを聞いているのか、という素朴な疑問がわくのであるが、そもそもきっとこんな疑問は的外れに違いない。購買層、つまりCDが買える、消費できる層というのは、当然金を持った白人に決まっているし(ラップが商品となり始めた当初のCDを買う層は、郊外の白人のティーンだといわれたように、郊外に家を持つ中産階級の子どもだったのだし)、ただでさえ若いやつは金がないのだし、コンプトン出身のアイス・キューブがどこかで言っていたように、ゲットーの黒人は明日食えるかどうかを心配しなきゃいけない状況なのだから、当然CDを買う余裕などないのだし、ルーペ・フィアスコが「おれはラップが大嫌いだった」とラップしていることからも明らかなように、そもそも黒人だからといってラップが好きなんてことはないのだし、いまやCDなど買わずとも、テレビをつければMTVで音楽は流れているし、Youtubeでただで動画を見れるし、今日びアルバム丸ごと無料でダウンロードできるわけだし、友達に借りるとか、みんなで聞くとか、タワーレコードで視聴するとか、金など払わずとも音楽を聴くことは可能なのだ。だから、この数字は当然といえば当然なのである(と一人合点)。

 

 そして、ここで、とくに触れる必要も無いのにそういえば、と思い出されてしまったのは、ケンドリック・ラマーのMoney Treesのパフォーマンスの光景だ。ニューヨークのユニオン・スクエアで行われたそのパフォーマンスに聴衆が詰め掛けた様子を、一瞬、これはちょっとばかし機械にこだわりと小金をお持ちの白人たちがマックの新製品か何かを買うために徹夜で並んで新製品に群がっている場面なのかと見まがってしまったのであるが、それはそういう雰囲気の白人男子がたまたま目に入って、なぜかずっとその青年に目が釘付けになったからなのであるが、よくよく見渡してみれば、当たり前であるがどんな色をしていようと集まりたいから集まった人たちなのであって、この本の参考文献に挙がっている著書のタイトルのようにWhy White Kids Love Hip Hopなどと大仰なことを考えずとも、ケンドリック・ラマーを聞く理由は、CDが買えようと買えまいと、ケンドリック・ラマーを愛しているからに決まっているではないかという気がしてくるのである。それとも、300年以上も黒人を隷属状態においてきた民族の子孫が、自分たちが隷属状態においてきた人びとの文化を愛するということ自体考察に値することで、そのことを理解するには、精神分析で解明されるべき無意識とかなにか深い意味や深い理由など、なんらかの説明がなければならないということなのだろうか。

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 さて、ギャングスタ・ラップといわれるラップの担い手は、そろそろ中年、あるいはすでに中年、もしくは老年といった域に達しているのであるが、彼らにとって人生において最高のもの=高級車やデカイ家やジュエリーであり、そういった価値観がラップのミュージック・ビデオには溢れているとしても、わざわざ批評家のネルソン・ジョージの、ラップは物質主義や暴力といったアメリカそのものが持つ価値観を反映しているに過ぎないという指摘を俟つまでもなく、たとえば、アイス・キューブと対談した、『フェミニズムはみんなのもの』等の著書で有名なフェミニスト学者のベル・フックスが、自分のお金でBMWを買って何が悪いの、と言い放った耳を疑う(いや、読んだから目を疑うか)発言を目にすれば、無理からぬことだなとおもうわけだし、いちおういろんなものを読んだり考えたり議論したりすることをナリワイとしている人間ですらそうなのだから、ゲットー生まれゲットー育ちの若者がラッパーになって自分で稼いだ金をそういったものに使うからといって、なんら不思議は無いではないか、という気がするし、ギャングスタ・ラップとは、それ以外のロールモデルのない時代の産物なのかもしれない、という気持ちもするのだ。

 

 トリシア・ローズのこの本は、たんにヒップホップの論争にたいして批判的考察を加えているだけ(=keep it realな状態)ではなく、周縁化されていながらも、決して暗い現実をラップするだけにとどまらず、コミュニティを肯定するやり方でその創造性を発揮している才能ある何人かのラッパーに注目しながら、ヒップホップの創造性と可能性について論じてくれているのである。ただひとつ、個人的に残念だなとおもうのは、そのラッパーのなかにアイス・キューブの名前が入っていないことだ。ベル・フックスがBMW発言の後に発した、自分の著作は商品であり、買ってくれる人=白人に妥協して書いている、あなたもそうじゃない?とのアイス・キューブをみくびった(としかおもえない)発言に、「いや、僕の場合はね、妥協しないことによって最大限の成功を手に入れてきたんだと思うよ。・・・僕がレコードを作っているのは黒人の子どもたちのためで、白人の子供たちは基本的にそれを盗み聞きしているんだ。でも、だからといって僕は言っていることを変える気はないよ。」と毅然と切り返すアイス・キューブは、ギャングスタ・ラップのなかでも聞くべき内容を歌うことができる稀有な存在だとおもうのだけど。ちなみにこの対談が訳出されたのは『現代思想』ブラック・カルチャー特集なのだが、この対談のアイス・キューブの発言は、今後もちょこちょこと触れていきたい。